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馬勉と徐鳳



馬勉と徐鳳

出身地域 : 両者とも、揚州 九江郡 陰陵県

活躍時期 : 順帝 ・ 沖帝 ・ 質帝代



 馬勉(バベン)は、順帝末~質帝代に起こった揚州・徐州の乱の首魁のひとり。揚州・九江郡・陰陵県の人。揚州の九江郡・丹陽郡、徐州の下邳国一帯を荒らし回った。

 建康元年(144年)十一月、同じく陰陵の人である徐鳳(ジョホウ)とともに九江郡で叛乱を起こし、郡県の吏人を殺略していった。徐鳳は絳い衣をつけて黒い綬を帯び「無上将軍」と称し、馬勉は皮の冠に黄色の衣・玉の印を帯びて「皇帝」と称した。二人は軍営を九江郡・当塗県の山中に築き、年号を建て、百官を置いた。同年十二月には、配下の将である黄虎(コウコ)に命じて合肥を陥落させた。永熹元年(145年)正月には、徐鳳が九江郡の西曲陽県に続いて徐州・下邳国の東城県を攻めて両県の県長を殺害した。同年三月には、馬勉がはじめて皇帝を称するも、歴陽の賊である范容(ハンヨウ)・周生(シュウセイ)ともども、滕撫に討伐され、首を斬られた。馬勉の首および帯びていた玉印・鹿皮冠・黄衣は洛陽に送られ、詔により夏城門の外に懸けられて見せしめにされた。その頃、徐鳳は東城県を攻め、役所を焼いている最中であったが、五月に下邳国の人である謝安(シャアン)の伏兵に遭って、命を落とした。【孝順孝沖孝質帝紀、滕撫伝、東観漢記、司馬彪続漢書天文志】




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